ステージを変えセンスを宿す神山隆二というアーティスト

アーティストの道に進んだ自身のライフストーリーからコラボレーションのデザインについて言及

RYUJI KAMIYAMA

RYUJI KAMIYAMA

オリジナルのクリエーションで世界から注目を集める神山隆二のデザイナーとしてのきっかけやアーティストとしての表現方法、今回のコラボレーション作品に込められたこだわりなどを明かす。

RYUJI KAMIYAMA

Q:幼少期の環境や影響を受けたものについて、お聞かせいただけますか?

地元は東京・東村山です。歳が離れた兄と二人部屋で、兄が読んでいるカルチャー/音楽系の雑誌や難解な漫画が、いつも手が届くところにあった。70年代後半から80年代前半のことだから、雑誌にはパンクやニューウェーブに関する情報がたくさん載ってて、「これって一体なんだろう?」と想像をめぐらせてた。兄とは6つも年齢が違うので、当時はコミュ二ケーションもほとんどなく、部屋では雑誌や漫画を隠れて読んでいました。この時に手にしたものは記憶の中で色濃く残っているかな。
凝り性だった父親からも大きな影響を受けた。新しい家電やサービスが世にでると、いち早く生活に取り入れているような人で。それを象徴していたのが実家の応接室兼オーディオルーム。父親なりに音響システムを整え、最新のカラオケマシンも完備していた。ここも僕の遊び場だった。ある日、オーディオルームに兄のレコードが置いてあって。雑誌の中で見たことのあるジャケットだったからちょっと興奮してね。レコードにこっそり針を落としては、ジャケットのイメージと鳴っている音が合っているのか、合ってないのか、子供ながらに考えたりして(笑)。当時は貸しレコード屋が全盛期で、僕も父親に連れられて「友&愛」(レコードレンタルショップ)に通うようになり、兄の雑誌から得た情報と自分の直感を頼りにレコードを借りていた。とにかく好奇心旺盛な子供だったね。

Q:当時、特に印象に残っているアーティストはいますか?

たくさんいたんだけど…小学校の高学年になると、日本のインディーズバンドに興味が湧いてきて。隣町の所沢にあったダイエーは、インディーズコーナーが充実していたので、背伸びして通うようになった。中でも「非常階段」、「あぶらだこ」、「スターリン」、「G.I.S.M.」は印象に残っているかな。
レコードジャケットの影響は大きくて、この頃から模写をするようになった。パンクのレコードジャケットはだいたいモノクロで、特に7インチのレコードになるとコピー機で出力したようなチープな質感のものが多くて。それはD.I.Y.精神の賜物でもあると思うけど、これなら自分でも描けるなって触発されてね。絵を描くことは物心ついた時から好きだったし。

Q:パンク=初期衝動を受け継いだエピソードですね。濃厚なカルチャーにどっぷりと浸かった半面、学校生活においては刺激が足りなかったのではないですか?

そうだね。勉強は嫌いだったし、ほとんどしなかった。模写や落書きの延長でもあるけど、学校でも美術の授業が唯一楽しかった。先生ものびのびと表現することを許してくれる人で。あと教科書に掲載されたパブロ・ピカソの「ゲルニカ」にも大きな衝撃を受けてね。色のない世界(モノクロで)でダイナミックかつ繊細な表現してるのと、未知のサイズ感(349× 777cm)に惹かれたんだと思う。
あと父親の影響で山下清にも興味を持った。モノクロのペン画をきっかけに画集を眺めるようになって。当時は(山下清を題材にした)TVドラマ『裸の大将放浪記』もやってて、旅をしながら絵を描くって子供ながらに憧れだなぁって。
もちろん友達とも子供らしい遊びをしていたよ。一緒に絵を描くこともあったけど、そういう時はガンダムのモビルスーツを模写していた。家で描くのとはモーフを変えて(笑)。自分なりに外と内の世界をちゃんと使い分けてたんだろうね。

Q:スケートボードとの出会いも同時期ですか?

それはもう少し後、中学三年生のとき。パンクのレコードのジャケットに、スケートボードを持った人たちが登場して、そのスタイルに興味を持ったのがきっかけ。ちょうど第二次スケートボードブームが到来した頃で、近所のスポーツ洋品店でコンプリートのモデルを購入して。それからはトリックやスタイルをひたすら学ぶ毎日。スケートボードのカルチャーにどっぷりとのめり込んでいったね。
ある日、東村山市役所の前で友達と滑っていたら、中学の先輩から「一緒にやらないか」と声をかけられて。それ以来、彼がホームにしている公園にも通うようになった。そこには何人もスケーターが集まっていて、中にはパンチパーマの人もいてね。当時は暴走族からサーファー、スケーターに転身する先輩も多かったの。ファッションはストリートカジュアルなんだけど、髪型は譲れなかったんだろうね(笑)。とにかく見た目が衝撃だった。
余談だけど、暴走族のタギング(壁にチーム名を記す)って日本のグラフィティの元祖だと思っていて。当時、頻繁にその現場に遭遇したけど、所作が繊細かつスピーディーで。自分も今、スプレーを使って作品を制作しているから、その凄さがよくわかる(笑)。
で話を戻して…先輩スケーターと交流がはじまり、中でも杉山タクちゃんとの出会いは大きかった。当時、鵠沼にサーフィンとスケートを融合した「PINEAPPLE BETTY’S」というショップがあってね。オーナーは伝説のプロサーファー、故・大野薫さん。あの「DOGTOWN」を日本に広めた張本人だね。タクちゃんはこのショップのチームライダーだったの。
彼とは毎日のように一緒だった。当時は夕方くらいに杉山家に集合して、保管しているジャンプランプを公園まで運び出す。その後はひたすらスケート。夜になったら杉山家で大野さんから借りたスケートビデオを延々と観ながらダベる、というのが日課。ある時は東村山から鵠沼海岸まで遠征して、「PINEAPPLE BETTY’S」にも遊びに行った。“日本のドッグタウンだ”と興奮してね。ファッションにおいてもタクちゃんの影響を受けて、「BETTY’S」、「H-STREET」、「HOMEBOYZ」のウエアを着るようになった。彼のお陰で目の前の世界がどんどん広がっていったね。

Q:カルチャーの渦に飲み込まれながら、将来についてはどのように考えていたのですか?

将来については「好きな絵を生かしながら、何か表現に近い仕事をしていきたい」と漠然に考えていて。ちょうど僕が高校卒業の間近に、イギリスに留学していた兄が帰ってきた。将来について兄に相談してみたら、グラフィックデザイナーという職業があることを教えてくれて。僕は思い立ったらすぐやる性分だし、一刻も早く現場に入って技術を身に付けようと思っていたから、すぐに就職活動をスタートさせて。卒業後に学校に入ってグラフィックデザインを学ぼうとは一切思わなかった。
面接を受けるには、ポートフォリオ(作品集)というものが必要と聞いて、これまでに描いた絵をまとめたりして。兄もデザイン事務所の連絡先を調べてくれるなど協力してくれた。それからアポを取って、スケートで面接で向かうという日々が続いて、結果として赤坂見附にあるデザイン会社が僕を拾ってくれた。あとで聞いたら、趣味で作っていたコラージュ作品を評価してくれたみたい。

Q:持ち前の感性と行動力を評価して下さったんですね。デザイン事務所ではどのようなものを手がけていたんですか?

会社には複数のチームがあって、僕はリクルート系の情報誌を担当する部署に配属された。直属の先輩がいたんだけど半年後に辞めちゃって、それからはほぼ一人でデザインを担当。打ち合わせして、スタジオで撮影して、コピーライターに原稿を依頼して、写植でページを作り…この繰り返し。家に帰ることができたのは月に数回というほど激務だったね。あまりにも疲労が蓄積してたから帰宅するのも面倒臭くなって、道中の友達の家で眠らせてもらうこともあった。

Q:当時、目標としているグラフィックデザイナーはいらっしゃったんですか?

会社も硬いところだったし、業界のこともあまり知らなくて。目標にしている方はいなかったな。日々の業務をこなすのに精一杯だったし。
会社にいて唯一救いだったのは、そろそろ事務所にMacが導入されるという噂があって。それまでは頑張ってみようと。使ってみたかったからね(笑)。当時、知人の会社がアップルコンピューターの代理店をしていて、その事務所に夜な夜なクリエーターが集まっては、情報交換をしていて。自分もマックをいじるようになってから出入りするようになって、仕事とは別のところで学びの機会を得た。立花ハジメさん(ミュージシャン / グラフィックデザイナー)も来てたかな。出力された作品を見せていただいて、みんなで驚いたりね。
結局、デザイン事務所は多忙を理由に1年半で退社して。しばらくスケートボードの乗ってブラブラしていた。ある日、ラフォーレ原宿の前で滑っていたら、友人を介して大川ひとみさん(MILKデザイナー)を紹介されて。会社辞めて何もしてないと話したら、「だったら明日からうちに来なよ」と。僕も興味があったから即決で。

Q:またまた路上での邂逅ですね。「MILK」では主に何を担当されていたんですか?

ひとみさんの運転手をしながら、店舗(MILK BOY)にも立ってた。あとは雑用全般。夜になると会社のハイエースにひとみさん、仕事仲間、ひとみさんのお友達を乗せて、クラブに繰り出して。まずみんなで食事をしてから、クラブを数軒はしご。ひとみさんはDJやクラブのスケジュールも網羅していて、ミロスガレージ、DJバーインクスティック、ゴールド…ほぼ毎日いろんなところに行ってたな。
昼間にお店に立ってるといってもDJをしているだけ(笑)。ひとみさんが毎日ゲストをお店に連れてきてね。それがとても刺激的だった。あと同時期にジョニオくん(高橋盾氏 / UNDER COVER デザイナー_)の手伝いもするようになって。その頃から自分の興味の対象が服に寄っていくんだよね。「UNDER COVER」のTシャツをシルクスクリーンで刷りながら、この技法は、紙に落とし込むか、服に落とし込むかの違いでしかなく、ほぼ一緒じゃんって。あとセディショナリーズの服の作り方を紐解いてみたりしてね。今まで当たり前に着ていた服の仕組みを知ることになる。そうこうしているうちに自分でも何か表現したくなってね。ひとみさんに相談して「MILK」を退社したんです。

Q:ご自身のブランド「FAMOUZ(フェイマス)」は、すぐにスタートしたんですか?

最初はブランドをやるって感じでもなかったんだけど、名刺代わりに名前(当初はFAMOUS)をつけて活動するようになった。自分でデザインを起こして、シルクスクリーンで服に印刷して。まずはクラブでの手売りからスタートした。当時は「ブランドをやってる」って自分で言うのにも気恥ずかしさがあってね(笑)。携帯電話がそれほど普及していなかったから、家の固定電話でやりとりしてお客さんに直接届けたり。それから卸販売もするようになって、MADE IN WORLD(渋谷)、Shop33(吉祥寺)、Revolution(仙台)等でも扱っていただくようになった。
さらにブランド活動と並行して、渋谷・並木橋にあった「EM」というアパレルショップを手伝うようにもなって。ここは「GOOD ENOUGH」やインポートの商品を扱っていて、「FAMOUZ」の商品も卸していた。のちに「EM」はオーナーが変わって、店名を藤原ヒロシくんが「ELT」と名付けて。そのリスタートまでをサポートして、その後は「FAMOUZ」の活動一本になったのかな。

Q:ブランドもご自身もメディアでの露出が増え、それからの神山さんは裏原宿ブームの真っ只中にいました。1995年にキャットストリートに旗艦店をオープンしましたね。

当時を振り返ると、本当は無意識だったんじゃないかなと思うほど、毎日がスピード感に溢れてた気がする。忘れていることもたっぷりあるし。僕たちの事務所が入っていたビルは、ブランドをやっている同世代の友人たちが拠点にもしていたから交流が盛んで、たくさん情報も入るし、刺激も受けて。確かに裏原宿はブームにはなっていたけど、僕は身の丈にあったやり方が性に合うから、当初はお店をやりたいとは思っていなくて。遊びの延長が仕事になった毎日がただただ楽しいだけで充分。これを続けられたらいいなとしか思ってなかった。とはいえ事務所のメンバーも増え、法人化し、ブランドが大きくなっていくことを目の当たりにしていく中で、僕自身の考え方も変わっていったね。当時はブランドの世界観をお客様と共有する場も求められてきたから、結果としてオンリーショップをオープンして良かったと思う。

Q:2000年にはお店は移転して「MOBILE HOME」と名前を変えました。ショップインショップのスタイルで店内にはインテリアショップもあり_、とても贅沢な空間だったと記憶しています。ところが「FAMOUZ」が設立10年目を迎えた年に、神山さんはブランドを畳むことを決意します。

当時、物件に絡む諸事情があり、今後のことを含めて客観的に考えたんです。もちろんブランドを続けることもできたけど、売れている状況がいつまで続くかわかないし、10数人のスタッフの将来もある。加えて僕自身も自分の手が届く範囲でものづくりをしたいとも思いはじめた。だったらブランドが下火になってからではなく、良い状態の時に解散した方がマインド的にも良いと判断して。スタッフにもその想いを話して、2002年に「FAMOUZ」をやめることになりました。この時、僕は30歳、大きな決断だったね。裏原宿での出会いと経験にはとても感謝しています。

Q:神山さんはひとつのところに執着しないというか、ご自身の感性に従って次なる環境を求める。それは勇気がいることだと思いますが、ものすごく軽やかに見えますね。

それはよく言われる。鼻が効くのか…無自覚なんだけど。切り替えるタイミングは上手いとは思う。これまで話している通り、子供の時から楽しいところに身を置いて、出会ったことがない人と交流して、僕は同じ環境にはずっといられないんだとも思う(笑)。動くことや変化は苦ではないし、むしろその中で楽しもうというのが身に染み付いてるんだろうね。

Q:「FAMOUZ」をやめた神山さんは、「FLAVOR.」(ペッドグッズ)、「Playout GALLERY」(ギャラリースペース)、「CHEESY BAD」、「BlANKS」(ともにファッションブランド)をスタートするなど、飽くなき好奇心に従って、つぎつぎにアウトプットをされてきました。そして今は、アーティスト・神山隆二として活動している。“アーティスト”を名乗るようになったきっかけを教えていただけますか?

2003年にはじめて個人の名前で作品を発表しました。それからはデザイナーの活動と並行してやってきたので、アーティストという肩書きにはピンと感じていなかった。転機となったのは2009年かな。各地でライブシルクスクリーンをやるようになって、お客さんとのコミュニケーションが増える中で、自分の作品を見て欲しい、見て感じてほしい、そして笑顔になってほしい、と強く思うようになって。特にライブシルクスクリーンの場合、お客さんの反応がダイレクトだからね。このときに背中を押してもらいながら、アーティストという自覚が芽生えた気がするな。ここ数年はクライアントワーク、アートワークと領域を設けず、どちらにおいても「神山隆二」の名前で表現しています。

Q:神山さんの作品とえいば、素材を選ばず、立体、平面、どちらにおいても神山さんのフィルターを通した痕跡がわかります。またタッチもさまざま。制作するにあたりインスピレーションの源になっているものはありますか?

具体的なものではなく、それは感覚でしかない。あと経験値。今はこの二つに任せていると思う。昔はそういうものに頼りたくなかったけど、今は色んなことをやってきた分、吸収も早くなっていると思う。作業の時間も日に日に早くなっているし。表現に応じた道具の使い分けも上手くなってるし。

Q:神山隆二のクリーエションといえば、“蛍光色の多用”をイメージされる方も多いと思います。そこには意図があるのですか?

これはね、子供の頃に見た歌舞伎町のネオンの影響。祖母が四谷に住んでいたこともあり、週末は歌舞伎町で映画をみたり、伊勢丹で買い物をしたり、新宿近辺で時間を過ごすことが多かった。中でも歌舞伎町のネオンの色には魅せられて、なんだろう…怖いんだけど、色気があるというか、好奇心を掻き立てられるというか。
ネオン管の光の按配って、時間の経過と共に変化するというか馴染んできて。その朽ち方にどこか哀愁を感じるんだよね。街が発光し、ぼやけた景色が目の前に広がっていく。その光の輪郭がとても美しく、人工的なものなのに温かく感じて、その記憶がずっと刷り込まれている。今、自分が作品の中で電飾を使ったり、蛍光色を多用しているのは、明らかにこの頃の影響だと思うな。

Q:なるほど。それでは今回の「WTW」とのコラボレーションについてお聞きします。制作にあたりコンセプトは設けたのですか?

コンセプトはないかな。「WTW」からアイテムの提案があり、それを元に僕がどのように拡げられるか、密なコミュニケーションを重ねて。結果として、ソファ(オットマン、クッション含む)、BKFチェア、サーフボード、「MOKUEMON」の木工作品に、僕が手を加えることになった。
僕はモチーフとなるプロダクトをまず見たときに、頭の中で色や構図がだいたい決まるんだよね。そもそもの造形美が視覚的に訴えかけてきて、それに対してのアンサーでもあるんだけど。そのイメージをずっと保持しながら、実際の作業日を迎える。ただ、制作においては“ライブ感”をもっとも大事にしているから、頭の中のイメージを吐き出すように手を動かすけど、だいたいが予定調和とはいかない。出来上がったものが当初のイメージから掛け離れることもしばしば。それがまた制作、ライブの醍醐味でもあるんだけどね。作業中はモチーフとずっと対話している感じかな。

Q:個々のアイテムついてお聞きします。まずソファですが、レイヤーの痕跡が美しさを形成し、神山さんらしさがダイナミックに表現されていますね。描きはじめとなる起点がどこに当たるのか、しばし見入ってしまいましたが、実際の作業はどのようにスタートするのでしょうか。

作業はいつもスプレーのノズルチェックからはじめる。それから筆慣らしも兼ねて、モチーフに「Hello, Beautiful」といきなり描く。これは挨拶代わりでもあるんだけど、それからが“ライブ”のはじまりだね。今回は「WTW」のオリジナルソファソファ(ファブリックは白地)を用意してもらって、これを真っ白いキャンバスに見立てて向かっていった。ただ、立体の場合、立ち位置でプロダクトが見せる表情が変わることもあり、その都度インスパイアされて自分の表現が転がっていく。さっき話した“対話”をひたすらしてる感じ。ソファにはオットマンとクッションも付属しているから、最終的に全体の調和も意識したね。

Q:「BKFチェア」は名作椅子として知られています。今回のコンセプトムービーでも確認できましたが、こちらをカスタムをした神山さんがガッツポーズをしていたのが印象的でした。

「BKFチェア」に手を加えるにあたり、現在生産をしているメーカーの許可のもと、キャンバス素材(麻)をシートを用意してもらって。なんと言っても歴史のあるプロダクトだし、個人的にも見慣れているものだから、最初から黒一色にしようと思っていた。カスタムは一発で決まったね。すごく手応えがあった。ソファにも言えることだけど、この椅子がどのように経年変化していくのか、今からとても楽しみなんだ。人にも空間にもどんどん馴染んでくるからね。

Q:北海道・ニセコの木工職人・桑原透氏が主宰する「MOKUEMON」とのコラボレーションは念願だったそうですね。

そうだね。くわさん(桑原氏)の作品には、サーフィンやスノーボードへの愛があって、その活動には以前から共感していて。北海道にスノーボードで行った際に工房にお邪魔したこともあった。今回のコラボレーションが決まって、当初はくわさんに一からスケートボードを作ってもらおうと思っていたんだけど、なんか違うかなと。だったら木を伐採せずに、リサイクルの観点で何かできないかなと。僕はずっとB級品の陶器や廃材を再生するプロジェクト(Layer for 3R)をやってきたから、そのデザインプロセスを採用した。こうして生まれたのが今回のオブジェ。素材はくわさんの工房にたくさんある端材。サーフィンのフィン、スケートボードの一部をイメージして作ってもらった。あえて端材の表情も残してもらってね。僕のアートワークの相性もすごく良かった。

Q:そして「WTW」を象徴とするサーフボードにもカスタムを加えましたね。

最初に無地のボードが届いたときに、太陽に照らされて青い海に浮かんでいるときのイメージがパッと浮かんだよね。あとカスタム時は3色を使用しようと。でも実際に作業をしてみると、「2色にしろ」という声が聞こえてね(笑)。かなりの寸止めで。これもモチーフとの対話だよね。一色を減らした分、結果としてバランスの良いカラーリングになったと思う。ボードの表面にはマットクリアでコーティングをしてもらってるから、もちろん海で使ってもらって大丈夫。あとね、できたらこのボードをインテリアとしても飾ってもらいたいなと思っていて。アート作品もインパクトがあるから、大きな絵のようにも捉えてほしくて。そんな想いもあるかな。

Q:今後、「WTW」とやってみたいことはありますか?

そうだね。今回は自由にやらせてもらって、ライブ感を投影した作品に仕上がった。この手応えを次に繋げて、秋冬に向けても同様にやってみたい。あとは「WTW」は、機能的でサーフライフに寄り添った住宅も手がけているから、今後はこの住宅も絡めて何かできたらいいな。

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